Hurricane Fighter Plane

しかしあの地震の直後には、どこかに旅行に出かけたり、友達に会ったり、酒飲んだり、暑いなー、とか言ってタオル首にかけてレコード聴きながらお茶飲んだりすることができるような日がまた来るとは思いもしなかったな、とか思いながら今年のお盆休みは過ごしていたのだった。

まあ地震の2日後にはなんか続いていくのかな、とか言う気持ちにはなったもののそれまでは本気で世界の終わりかと思った。地震の被害だけでそう思ったわけだから、津波の被害があったところでの気持ちは測り知れない。この間津波の被害に遭った石巻の親戚のところに行って、今ではある程度普通に暮らせるようにはなっているものの、その家までの目印にしていたものがことごとく消え去ったり、逆に謎の物体が放置されているようなその地域を見てその思いを新たにしたのだった。

でも、ずっと好きな音楽が聴きたかったのだった。震災後音楽が聴けなくなったとか或いは、震災後聴けない音楽がある、とか色々なところで目にする言葉なのだが、逆に私はずーっと自分の好きな音楽が聴きたかった。電気が復活するのを、つまり再生装置に電源が入るのを心待ちにしていたものだった。それは被害が少なかったからなのだろうけれども、あの時の気分はなんだったのだろう、とずっと不思議に思っていた。

それが最近わかった。山下達郎氏が「感情を逆なでして問題喚起をするアバンギャルドミュージックなどがありますが、そういう音楽は世の中が平和であってこそ成り立つんですよ。」という発言をしていたのがヒントになった。彼はポップミュージックを作っているので人の幸せに寄り添う義務がある、とかそういう話の中で出ていたのだが、なるほど。

要は私は平和を求めていたのだろう。別に私はそんなアバンギャルドミュージックとやらを聴いていることは決してないと思っているのだけれども、地震の後もバッキバキのノイズのようなものとかを立て続けに聴きまくっていた。それは無理やりに平和を感じたかったのだろうか、基盤の上に成り立つものとしてのノイズ、ではなくノイズというウワモノから固めて基盤を作るぞ、的な勢いで。

長い目で見れば全然平和なんか今の日本にはないし、もっと長い目で見ればもう日本で生きていくことにはあんまり希望がないかもしれないし、生きて行けないかもしれない。でも少なくとも心をまともに、平和に保ちたいな、という思いがどこかにあるが故に上記のような戦法に頼るべく先日も東京でHototogisuだSutcliffe JugendだComeだ、と買ってしまったのかな。あ、言い訳だなこれは。

地震だの津波から5カ月以上経って思うことがあったのだった。ま、結局は好きな音楽を聴くことほど力になることはないもんだな、ってことだったりする、と矮小化してまとめたい。逆もまた真なのだがその話はまあ良いだろう。だからThe Red Crayolaの「The Parable Of Arable Land」を聴く。1967年のファーストアルバムの、我がアイドルSonic Boom氏によるリマスタ最新版である。私はファーストとセカンドの2in1CDとか、Radarからのアナログでしか聴いていなかったのでこうして各楽器がくっきりと立ちあがった音で聴けて何だか感激である。しかもステレオとモノラルの2枚組+未発表ヴァージョン含むボートラ付きなのでなんだか完全版、という言葉が似つかわしいエディションである。大体上記2in1とかアナログからの針起こしだったりするから、CDなのにアナログ盤の針ノイズ入りまくりというブート一歩手前の世界だったわけで。勿論、執拗に登場する「Free Form Freakout」の醸し出す無茶苦茶な、所謂サイケデリックな空気感も倍増なわけだが、それらを挟んで表われるウタモノの歌心の特異さ、素朴さ、美しさ、はサイケデリックとかそういう言葉では少しも言い表せない素晴らしさなのであって、それらから得られる興奮、感動もこのエディションでは倍増である。Mayo Thompson御大は歌が上手いことは決してないが、逆にその謎のメロディラインから立ち上がるソウルフルさはここでしか聴けないわけであるし、なんて包み込むような音楽なのだろうか、と思わせる要素の1つである。テキサスサイケ、とか形容される音楽のある部分を体現するアルバムであるのは確かであるが、同時に自由な空気と音楽の美しさを1枚にまとめあげるとこうなる、という最高の見本でもある。ちなみにこのCDエディションの2枚目では「Free Form Freakout」パートを除く、曲だけをまとめる、とかそういうこともされているのだが、それすら全くの蛇足であると言わざるを得ないほどの構成美がこのアルバムにはあるのだった。とくに2枚目のモノラルディスクの音の塊の突進具合とか感涙ものの格好良さであるからして。