Random Acts Of Senseless Violence

ところで最近は、自分は餃子が凄く好きだ、ということを再確認する日々である。

実家で暮らしていた頃はさほど意識していなかったものの、最近は月に何回か餃子食べないと何だかやってられない、的なところまで来ている。色々なお店で色々な餃子があって、どれも美味しいことは美味しい。でもやはり仙台に於いては「八仙」の焼き餃子でトドメだよなあ(こちらのエントリ参照のこと)行きたいなあ、とか色々あるのだけれども家で作って食べる餃子がとても美味しい。

我が家の餃子は豚ひき肉とニラのみが具である。餃子特集の料理本とか見ると必ずアイディアを凝らした餃子のレシピがたんまりと載っていて、まあ、それら変わり種餃子も美味しそうではあるけれども、やはりどうしても作る際には結局、「ど」が付くほどスタンダードな、極々シンプルな餃子に落ち着いてしまう。というか新鮮なニラが八百屋、もしくは産直コーナーにあったらば迷わずそれで餃子を仕込むべきである。しかも上記のように極々シンプルな具で。ニンニクとかネギとか別にいらない。ニラとひき肉、そこにごま油、とかいったものだけでバシッとパンチの利いた一品になるのだから。その一方で餃子の皮にはとくにこだわりはなく、自作した皮でも、普通にスーパーで売ってる皮でも、どれもそれぞれ特長があってどれもそれぞれ良い感じで美味しい、とかそういうどうでも良いまとめになってしまうのだが。

そしてこのようなシンプルな餃子だから、どちらかというと水餃子にするのがしっくり来るような気がする。我が家で焼き餃子もやってみたのだが、どっちかというとぷるん、つるん、と食べられる水餃子の方がそのシンプルさ故に飽きずに食べられるような気がする。まあ、個人の好みもあるのだろうけれども、鍋内のお湯で浮かんできた餃子を掬って、醤油と酢とラー油だけのこれまたシンプルなタレにつけて食べるだけで、そしてそれにプラスしてビールと白いご飯があるだけで、もうこれ以上はない、というくらいの幸せになれるんだから餃子パワーは凄いというか私は何と単純なのか、という話なのだけれども。

でも、こういう単純で小さな喜びが何よりも幸せなのだ、ということはとくにここ3カ月近く、日本国中がそういうノリになってきているから私が大声で言わなくても良いことだろう。大体いつまで美味しい安全なものが食べられるかわからないのだ。だから、今のうちに、美味しいと思えて生がある今のうちに餃子を食べまくってやるのだ。

だから、今のうちにDavid Sylvianの「Died In The Wool」を聴くのだ。サブタイトルに「Manafon Variations」とある通り、あの「Manafon」マナフォンからの曲の新ヴァージョンを中心に据えた作品である。とは言え新曲も含まれ、更にはインスタレーション用の曲も2枚目のディスクに収録され、かなりヴォリューム満点のアルバムである。David Sylvianさんはここ最近ソロ名義ではインプロと彼の声の融合、みたいな感じのアルバムが続いているのだが、今作では新曲で何だか久々に「うた」っぽい感じの、というかはっきりとしたメロディのようなものが感じ取れるヴォーカルがあったりして、また新たな方向に向かうのかもな、という印象を受けたりもする。「Manafon」の曲の新ヴァージョンも藤倉大とかJan BangとかErik Honoreなど、限られた人々によるリワークが収められているので、不思議と統一感があって、実は「Manafon」本体よりも聴きやすいのかも、という側面もあったりする。それどころか、彼らのリワークも隙間をしっかりと残した感じで、これまでのDavid Sylvianのオリジナルアルバムの流れの中に置いたとしても何ら違和感なく、とても充実した作品として存在し得るだろう、と思うのだった。しかし、ほほう随分と曲の表情も変わるものだのう、と思うのだがでもやっぱり、彼のこの声が乗っかってしまうと、(それはこの間のコラボとか色々集めたアルバムSleepwalkersでも如実だったが)どうしても一気にDavid Sylvianの作品、となってしまうのも事実なのであった。ところで藤倉大のストリングスと管楽器のアレンジ具合が全体的に大層出色なのだが、それは前作のボートラ(日本盤CD、そしてアナログの)でも垣間見えたことなのだった。前作の輸入盤CDを買った私はこのボートラのためにアナログも購入する羽目になったのだがこうしてまんまと今作に収録されてしまったりすると、まあ何とも言えない気持ちになったりするのだが、大丈夫、慣れてるさ、そういうのには・・・。