Nothing Is The News

本当は明日は静かに家で過ごしたいものだけれど、明日から下らねえ用件で水曜日まで家にいないのでなんだかこう、非常に忌々しい気持ちだ。

それはそれとして、本当に1年が過ぎるのは早い。けどそう思うと同時に昨年のことは不思議なことに、震災以前も震災以降も、全てのことが遠い昔のことのように思える。震災以前、というのは非常に合理的に何か説明ができそうなものだけれども、それ以降のこと、ってのは何故なのだろう。映画「モテキ」のDVDが出た、という話を読んでふとそう思いだしたのだ。これを映画館で見たのも凄く昔のことのように思えるけど実際には結構去年の後半の話だ。

昨年の自分のブログを読み返してみる。3月くらいのブログは何だかとんでもないことから何かを取り戻そうとしている感じが伝わる。それが落ち着くと結構平常時のテンションになっていって、普通になっている。しかし私のブログも遠い昔のような感じがある。でも不思議と3月くらいの震災後のブログからは「喜び」が感じ取れる。勿論あんな目に遭って、そしてもっともっととんでもなく酷い目に遭った人々のことを知ってそのことに関して喜んでいたら阿呆だ。しかし、その後のごくごく個人的な営みの中には喜びがあったことは確かだ。日常が分断されたが故に、いつもメインで考えていたようなこと、感じていたようなことよりも、もっと良い意味でプリミティヴな「喜び」というものを感じ取れていたようである。それだけは幸せなことだと言わざるを得ない。

あれから1年、日々の速さは変わらないし、今後も変わらないだろう。来年の今頃もこうやって時間の速さとか、でも全て遠い昔みたいな感覚とかをつづっているかも知れない。世の中に歯がゆさを感じ、憤り、呆れ、という日々は続いていくのだろう。生きている限り続いて行くのかも知れない。それでも「喜び」、もっと具体的に言えば私の周囲の方々とのつながり、を感じながら生きていける、ということがわかったからもう生きていくしかないのだ。

それは大きく書かれた、声高に言われた「絆」とかそういうものではなく、またごり押しされる「元気に」「笑顔で」というものではなく、ごくごく個人的なものである。だから公にここに書くのもどうかと思うのだが、こういう感覚も1年経つと強まった人もいるんですよ、ってことを記しておきたいと思ったのだった。

ってなことをあの1年前と同じようなシチュエーションの金曜日、敢えてあの日と同じ中華屋で敢えて同じ回鍋肉定食食べながらつらつら考えてたのだった。1年前は名古屋の友人とジャーマンニューウェーヴに関してのメールをやり取りしながら食べていた。まさかあの2時間後にあんなことになるとは。あの日はThe Fallの「This Nation's Saving Grace」のデラックス再発盤This Nation's Saving Grace (Omnibus Edition)を車で聴いてて「I Am Damo Suzuki」で鼻血出そうなくらい興奮してたんだった。まさかその2時間後からは運転しながら耳がラジオを貪るように聞くことしかできなくなるとは、ってなことを思い出しながら。

Damin Juradoの「Maraqopa」を聴く。Secretly Canadianからの新作である。前作はなんだかまるで60年代ポップスのような感じもあって凄く良かったが、今作もその路線ではあるがもうちょい翳りがある、というかくぐもったサイケな感じまでしていて地味に色々この人は変化している。でも毎回毎回面白いのである。基本的には凄く真っ当なシンガーソングライターなわけで曲の良さは間違いない。だから安心して聴ける。ただ、地味なのである。しかしそれを逆手に取って色々やっていてもハズした印象が生まれないのはある意味得である。今回も児童コーラスとか入ったり、前述のようにサイケな色合いが濃かったり、という点はあるのだけれどもそれでもやっぱりこの人の照れたような高音気味なヴォーカルと、淋しげなミニマルだけれども味わい深いメロディがあればほっとするほどDamien Juradoの音楽になっちゃうのは流石である。今作はちょっと全体的に遠くで鳴っているような音作りなので寂寥感二割増しだったりする。なんか雪景色が似合うアルバムである。しかも冬じゃなくて、今の時期のようなもう少しで春なのに、という感じの雪景色が似合う。