Wilco ( The Song )

今こうして我がPCで「日々散歩」を書いているのだが、実はPCのACアダプターがイカれてしまっていて安定した電源供給が望めない、という何かどこかの発展途上国のような状態なのである。今こうやってPCが動いているのは、さっきからACアダプターの接続部をぐりぐりやって電源を供給できる状態に無理やりしているからで、膝の上にアダプターのでっかい部分が乗っかっている状態なのである。微動だにできない。まるでヒスノイズを防ぐために微動だにしなかったTelevisionのライヴ状態である。

そしてコンタクトレンズはいまだに発見できず(皆さんのお宅にありませんか、私のコンタクト・・・)、且つ作りに行く時間もないのでメガネ男子のままである。

そして明日は車検である。9年くらい経過した我が車であるが最近は何だか怪音がエンジン部からする。一体どのような検査結果なのか。

そして携帯電話であるが、例の強制ローン(2年だかかけて本体価格を払い続ける、という)はいまだ終わってないというのにぼろぼろで、遂には充電口のカヴァーが取れて、最早ジャンク品と見まごう状態に成り果てている。いつ崩壊するのだろうか・・・。

ということで私は今非常に不自由な状態である。身の回り品、あって当然だといつのまにか思っていた(思い込まされていた)物品がことごとく何だか不調なわけである。ということでなんだか調子が悪いのだ。体調は良いのだが(疲労はマックスだが)何だか不完全な気が猛烈にしている。「俺は俺だ。俺の体があれば何ら不自由ない。」とか言ってのける奴はウソツキである。そんな人間は磔刑に処されたり、火刑に処されるが良い。ウソツキは嫌いだ。多分「俺」とか「あなた」というのは様々な身の回りの付属品が好調の時には「別に何にも左右されないぜ」とか思い込まされているだけだ。身の回り全ての物、否、たった一部と思われるようなものを失ってみるが良い。それでもあなたはあなた100%だろうか?

ということで今、私は100%私、という状態ではない。しかも最近何だか時間も取れなくて家で音楽聴いていなかったりしたからもう、私は3%私、程度であった。ということで私は「私」を補うべくWilcoの「Wilco ( The Album )」を聴く。遂にこんなタイトルのアルバムを・・・、という感慨が沸き起こるものであるが、内容も何だか今までありそうでなかったような感じであら?あららら?と最初は大いに戸惑ったものである。まずポップである。否、この表現も的確ではないが、何だか今までの何か裏にありそうな感じ、もしくは俯いている感じ、が大いに後退してかなりざっくりとしたメロディラインにざっくりとパワフルな演奏、というUncle Tupelo時代から考えてもこういう展開なかったよなー、というくらいヌケが良い。今更「オルタナ・カントリー」とかいう意味のわからない呼称を引っ張り出してくる人もいないだろうとは思うのだが、どちらかというと実に骨太なロックンロールバンドなんだなあ、と認識させられたりする。とは言えこれまでの良い意味での「曖昧さ」みたいな部分は健在で、遂にはその曖昧な感じはGeorge Harrison級の突き抜けた曖昧さにまで到達しているように感じられる。実際何だかスライドギターのフレーズがまるでGeorge Harrisonみたいに聴こえてしょうがない曲があったりするわけなのだ。Feistがゲストヴォーカルで華を添えたり、というポイントも見逃せない。こんなタイトルのアルバムで何だかある意味若返ってしまったこのバンドは多分今後もこのまま、ある意味、そして良い意味で不気味さを兼ね添えて大きくなっていくのだろうなあ、としみじみ感じられる傑作である。そしてNels Clineというギタリストの凄さも痛感せざるを得ないアルバムでもある。彼が抜けたらちょっとWilco、どうなっちゃうんだろうな、という不安も少し。